文章にちなんだことを書いていたら、奇しくも7月の異称が文月でした。
最近、クライアント様より「このブログを見ているよ!」と声をかけられることがあり、嬉しい限りです。
先日、初対面のかたに「澄んだ水のような文章」と、私には不相応ではありますが、最高の形容をしていただきました。
それこそ、ブログの第一回でも謳いました通り、私が目指すところだからです。
そのあたりの意を汲んでいただいてこその激励と受け止めております。
私は幼い頃、辞書を読むことが好きなくらい言語マニアでした。
初見の難読語に会うとワクワクする変な奴です。
とくに三島由紀夫の小説は絢爛な漢字の宝庫でした。
当然私が創る小説も難読語がちりばめられており、自己満足なとても読みづらいものに仕上がりました。
社会人になってから、ビジネス上おまえの文章はわかりにくいと、赤ペンで容赦なく改変されたことが何度もあります。
痛みと悔しさとともに私は変わり、いつしかわかりやすさを心がけるようになりました。
それにともない、執着も漢字もだいぶ流れてしまいました。
人に見せるかは別として、文章を書くことは心のデトックスになると私は思います。
内面にあるものを形にする。それが邪気でもいい。とりあえず吐き出すように書き出す。
スッキリすることは当然ながら、顕在化した内面を冷静かつ客観的な視点で俯瞰できます。
それから無造作な言の葉を、剪定するように枝葉を落としてシンプルな姿に仕立て上げる。
とても気持ちが整理できます。そして話言葉も整理できるはずです。
最近では、混濁した水を純水に研ぎ澄ましていく工程のようにも思います。
心と言葉が同質であるなら、言葉の浄化はすなわち心の浄化となりえるでしょう。
私はかつてこんなことを語る気質ではありませんでしたが、立場が人を変えました。
そしてまだまだ、浄化の道半ばです。